Nishinomiya Arts and Culture Association

設立のころ

昭和48年の幕開け早々に、市内在住の芸術家のもとに西宮芸術文化協会設立の呼びかけがされました。
発起人14名の呼びかけに応じたのは95名の作家たち。
市役所8階の大会議室で設立総会が開催されました。

設立総会案内状の文面

設立総会プログラム

  • 明治31年生まれ。詩人。早稲田大学英文科卒。三木露風に師事。詩誌“未来”に参加。“秀才文壇”の三秀才とも呼ばれ、 後に”灌木”を主宰。多数の詩人を輩出させた。神戸女学院教授。詩集、評論、校歌の作品も多く、 なかでもラジオ歌謡「春の唄」の‘ラララ 紅い花束車に積んで 春が来た来た’は広く親しまれた。
  • 明治32年生まれ。音楽美学興隆の基盤を作ったわが国の音楽美学の草分け的存在。音楽評論を通じて音楽界の発展に寄与した。 関西学院大学名誉教授、美学学会理事、音楽学会関西支部長、毎日新聞音楽審査委員などを務める。
  • 明治39年生まれ。画家。旧制中学卒業後、川端画学校で学び光風会会員となる。 抽象画の旗手・長谷川三郎と出会い造形と精神の影響を受ける。書にも深く傾倒、独自性を確立。 昭和33年“週刊朝日”に連載が始まった司馬遼太郎の「街道をゆく」の挿絵を描きはじめ、具象画を再開した。

これまでのあゆみ

協会設立
1973年(昭和48年)
設立当初の西宮芸術文化協会は95名。
洋画、デザイン、日本画、書道、写真、彫塑、建築、工芸、音楽、演劇、舞踊、文芸の12部門でスタート。
市役所8階の大会議室で設立総会が行われました。
同年3月、市役所の大会議室で第1回西宮市芸術祭を開催。
西宮市芸術祭
1973年(昭和48年)
第2回西宮市芸術祭の会場となった西宮市大谷記念美術館(元昭和電極社長・大谷竹次郎氏邸宅)は、
美しい和風庭園をもつ日本家屋で、市に寄贈された後、そのまま美術館として使用されました。
畳にカーペット敷きという状態で長く活用され、多くの芸術協会のイベントがこの場所で行われました。
このころ、関西の財界人である西宮の大谷氏・芦屋の吉原氏(『具体』グループ)などが
芸術支援(メセナ)に積極的であり、西宮と芦屋の芸術活動は広く認知されようになりました。
活動の場 市民ギャラリー
1985年(昭和60年)
市民ギャラリーが教育文化センター内にオープン。
協会が要請し続けた芸術文化活動の場として、念願の「展示場」が実現しました。
野外文化事業の開催
1990年(平成2年)
市政65周年を期して野外文化事業がスタート。
第1回目の開催場所は夙川河畔。水上に突き出した舞台の上で夜間照明とスピーカーを使い、
『初秋、夙川で演ずる能と音楽』が開催されました。
夏の夜の河畔に観客が集まり、能やフラメンコなどの催しを楽しみました。
芸術祭に文芸部門が参加
1992年(平成4年)
それまでの展示7部門(展覧会)・音楽部門(音楽会)・芸能部門(古典芸能鑑賞会)に加えて文芸部門が西宮市芸術祭に参加。
西宮文芸誌『表情』の発行が始まります。
阪神淡路大震災を乗り越えて
1995年(平成7年)
阪神淡路大震災発生。この年、市政70周年で計画されていた行事はすべて中止となりました。
翌平成8年夏、協会が自主的に芸術祭開催に協力。
芸術文化が人々に活力の灯をともしたひとつの例となりました。
1997年(平成9年)
野外文化事業が再開。従来の舞台設置方式ではなく、より多くの会員が参加するエコバルーンなど
市民が鑑賞するだけではなく「参加する催し」に変身し、参加者は延べ7000人を数えました。
この年、西宮市民文化賞(団体賞)を西宮芸術文化協会が受賞しました。
西宮、わがふるさと
協会は2003年(平成15年)に創立30周年を迎えました。
芸術文化と市民との橋渡しの役目を担い、誇りある芸術活動の旗手として、
西宮から全国へ向けて発信していくことを目標に活動を続けます。